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垂水麓~日本遺産「薩摩の武士が生きた町」~

日本遺産とは

「日本遺産(JapanHeritage)」は、地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(JapanHeritage)」と名付け、文化庁が認定するものです。

ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけではなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。
世界遺産登録や文化財指定は、保護を担保することを目的とするものです。一方で日本遺産は、地域に点在する遺産を「面」として活用し、発信することで、地域活性化を図ることを目的としている点に違いがあります。

日本遺産#082「薩摩の武士が生きた町」~武家屋敷群「麓」を歩く

勇猛果敢な薩摩の武士を育んだ地,鹿児島。
そこには本城の鹿児島城跡や、県内各地の山城跡の周辺に配置された麓と呼ばれる外城の武家屋敷群が数多く残っています。
鹿児島城跡や麓を歩けば,薩摩の武士達の往時の生き様が見えてきます。

薩摩藩独自の防御システム「外城制度」と麓

中世以来の守護大名であり、戦国時代末には九州全土を平定する勢いだった薩摩の島津氏は、豊臣秀吉の九州平定で敗れ、領地を大幅に削減されましたが、武士の数は減らしませんでした。このため薩摩藩は他の藩より武士の割合が高くなり、全人口の4分の1程度を武士が占めていました。そのため他の藩のように本城である鹿児島城の城下に全ての武士を集住させることができず、独自の外城制度として各地の山城の周辺に「麓」(武家屋敷群)をつくり、数十人から時には数千人を配置することにしました。

こうして、各地に武士団の集住地が存在する薩摩藩独自の制度が生まれたのです。麓はシラス台地の端にある山城と近くを流れる川に挟まれた、防御に適した場所に多く作られ、その数は江戸時代末の薩摩藩領内には120か所もありました。

 

垂水麓の特徴

垂水麓は、本宗家に次ぐ一門家であった「垂水島津家」が治めており、現垂水小学校の場所にあった「林之城」を中心とした町割がありました。

林之城跡の一画にある「お長屋」は、現存する木造建築物としては県内最古のものです。石垣や瓦などのほか、構造の基本である柱・梁も近世の時期性を保っています。多門櫓(タモンヤグラ)という種類の建物で、侍詰所や兵具(武器)庫として用いられたと考えられています。

 

【写真1:お長屋】

 

お長屋の反対側、林之城跡の北方向には、「お殿加神社」が鎮座しています。垂水島津家の初代当主であった島津忠将を崇めて建立された神社で、垂水島津家二代以久が建立した時には「天下大明神」であったものが、四代久信が再興したときに「殿下大明神」と表記され、いまでは「殿加神社」という名前になっています。

江戸時代のころの地図を見てみると、お殿加神社が今と同じ位置にあることや、道路などの町割が今とほとんど変わらないことに驚かされます。その名残は麓周辺の地名などにも表れています。

現在の垂水麓の道路にも、敵が攻め入ってきたときに直進させないよう、カクっとわざと曲がらせたような「桝形(マスガタ)」という形が見受けられます。このように、麓としての町割が今現在も続いているという点こそが、垂水麓の最大の特徴です。

【写真2:江戸時代のときの地図】

垂水人形

「垂水人形」は、帖佐人形をはじめとする薩摩焼土人形の系譜にあり、江戸時代には武士の内職の一つであったともいわれ、娘、花嫁、福神、犬、猫、鯛などの人形が作られました。

垂水人形は、こねた粘土を型枠に入れて形をつくり、乾燥させたものを素焼きにして糊粉を塗り、その上に色付けをした素朴な人形です。昭和10年(1935)頃からすたれ、一時制作は途絶えましたが、帖佐人形や残っている垂水人形の原型を参考に、中島信夫氏らによって平成元年(1989)に復活しました。

垂水麓の近現代

垂水麓は、残念ながら他の麓のようにいわゆる「武家屋敷群」として目立つ麓ではありません。その主たる理由としては、垂水を襲った太平洋戦争期の戦火を挙げることができます。

終戦の年となった昭和20年、垂水には牛根から浜平にまで軍事施設等があり、そのためか、大きな空襲に何度も襲われました。垂水麓の周辺にも、数メートルおきに焼夷弾が地面に刺さっていたとの証言もあります。実際、垂水麓内の地点から焼夷弾が発見され、現在は文化会館にて展示されています。

 

戦火に見舞われた垂水麓ですが、前述のようにお長屋や町割などが良く残っており、林之城の後背にそびえるシラス台地も含めて、近世当時の景観をしのぶことができます。また、国指定史跡「垂水島津家墓所」まで麓から徒歩5分ほどで見学することができます。現在、国指定史跡と日本遺産が一緒に見学できるのは、本宗家であった鹿児島市と、一門家であった垂水市だけです。そして武家屋敷群があまり残っていないこと自体からも、垂水を襲った戦火の激しさを想起することができます。

 


お問い合わせ

垂水市教育委員会社会教育課文化スポーツ係

鹿児島県垂水市田神2750-1

電話番号:0994-32-7551

ファックス:0994-32-7554

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更新日:2024年10月10日