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更新日:2024年10月4日
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太平洋戦争が激化していた昭和19年、日本は本土決戦を想定し、決戦の準備として沿岸築城(砲台、陣地の構築)や特攻兵器(回天・震洋など)の開発に着手していきました。
とくに鹿児島県は地理・地形的な条件により、軍事的に重要な役割を果たしていました。南方からの米軍の侵攻に備えるため、当時は貴重だったコンクリートを使用した要塞や、素掘りの洞窟式陣地、水上特攻の基地などが数多く構築されていきました。
こうした流れの中で、昭和19年4月、「魚雷整備」を主な目的とした旧垂水海軍航空隊もまた、いまの浜平・柊原のあたりに開設されました。開設のための準備は昭和17年ごろから始まっていたようです。開設されてからは、司令、教官その他数百名、また航空雷爆練習生など、合わせて2500名前後の人々が活動しており、その活気は昭和20年8月の終戦時まで続きました。
太平洋戦争や旧垂水海軍航空隊に関わる記録資料としては、『垂水市史』のほか、『太平洋戦争のつめあと_垂水市戦災日記』、『垂水市史料集13_戦後五十年戦争体験記』などがあり、垂水市報『広報たるみず2013年8月号』にも当時を知る方々の証言記録が記載されています。
【垂水海軍航空隊の碑】
垂水市に残る資料等によれば、旧垂水海軍航空隊基地の範囲は、「尾迫橋から南、国道220号線を挟んで柊原小学校西側までのあたり」だとされています。基地の中には、「木造二階建ての兵舎四棟、本部司令室一棟、その他に兵器製作所二棟と兵舎前には広い練兵場」があったとされ、ほかにも「トーチカ跡」や缶詰などの「食料備蓄壕(びちくごう)」などもあったようです。
現在、これらの痕跡はほとんど残ってはいませんが、当時を知る方々への聞き取り調査や現地踏査を行うことで、おおよその位置関係の把握に努めています。
終戦の年となった昭和20年に入ると、垂水市内でも大きな空襲が複数回ありました。3月に起こった浜平・柊原への空襲によって旧垂水海軍航空隊の施設も大きな被害を受け、それを機に「地下壕(ちかごう)」への機能移設がですすめられていきました。複数の地下壕の中でも最も規模が大きい「浜平地下壕」は魚雷整備場としての役割が主な機能であったと考えられており、築造作業自体は昭和19年から進められていたといいます。
市教育委員会は、浜平・柊原地区を中心に、浜平地下壕を含む戦争遺跡の悉皆調査を実施しました。その結果、浜平地下壕は総延長約1.75kmと想定以上に大規模で、「ひとまとまりの地下壕としては九州最大級」であることがわかりました。規模だけではなく、内部に残る各構造物などの残存状況も良好で、様々な観察と検討を比較的安全に行うことが可能であることからも、我が国の太平洋戦争時代を物語る重要な戦争遺跡の一つであると言えます。
【浜平地下壕の平面図】
浜平地下壕が所在する高尾崖は、硬質シラスの塊であるいわゆる「シラス台地」です。非常に頑丈な岩質であるため、地下壕内部の様々な構造物なども良好な状態で残存しています。
旧軍施設等の設計資料の一つである『築城隧道(小型)計画規準』によれば、「位置の選定」に際して考慮する項目は以下のように挙げられています。
このことから、設計当初より硬質シラスの頑丈さが評価されていたことがわかります。浜平地区の海に面した地形も含め、垂水の地質と地形の特徴がよく理解され、活用されていたのです。
平面図からもわかるとおり、民間のいわゆる防空壕とは異なり、非常に規格性の強い構造となっています。11本の縦坑とそれらを網目状につなぐ横坑とで構成されており、すべての横坑の位置がほぼ直線的に連なることからも、造営時にきちんと測量されていたことがわかります。
地下壕の平面構造モデルは、前述した『築城隧道(小型)計画規準』にも記載されており、このうち「梯子型」というモデルが該当するのではないかと考えられます。後述する支保工の存在やコンクリート構造物の配置などから、内部でも役割によってある程度の区画分けが行われていた可能性、あるいはそれらが造営順序を示している可能性も検討できます。
浜平地下壕の内部には、いくつかの構造物が良好な状態で残存しています。平面図の左から三番目の縦坑には、何らかの基礎部のようなコンクリート構造物、そのすぐ隣に倉庫のような横坑、そして今もなお水や砂が溜まっている3つの貯水槽など、ひと際目立つ構造物が集中しています。専門家指導によれば、これらはディーゼル発電機を使用した痕跡と考えられ、貯水槽は水ではなく燃料の貯蔵庫であった可能性があります。
また、発電した電気を地下壕内部に行き渡らせるための遺物も地下壕内の各所で見つかっています。電気の流れを調節する「碍子(がいし)」や、電線を支えていたと思われる「壁面に残る鉄釘」などがそれにあたります。
【基礎部状構造物】【燃料貯蔵庫】
壕の中の一部分にのみ、支保工跡と思われる鉤形(かぎがた)のくぼみと、コンクリートが敷かれた床面部があります。支保工については、11本の縦坑のうち平面図左側(北側)4本のほか、最奥にある横坑の一部にも確認できます。
全面的に支保工が確認できる縦坑のうち、3本が平面図左側に所在し、発電設備やコンクリートの床面もその部分に集中していることから、これらはこの壕の主目的である「魚雷整備」のための構造物群だと考えられます。支保工は壕内を支えるだけでなく、大きく重たい魚雷を吊り下げるためにも利用され、また整備を行うための工作機械がコンクリート床面の部分に設置されていたと考えられます。
【支保工とコンクリートの床面】【壕内の様子】
浜平地下壕では、上記のほかにもさまざまな遺構や痕跡を確認することができます。さらに当時を知る方々の証言記録などと組み合わせることで、太平洋戦争当時のことを雄弁に語ってくれます。
3D計測によって得られたデータを用いて、全体像が把握できる動画を作成しました。
外部サイト(YouTube)にて一部公開しています。
本動画そのものは厳密な測量情報を担保するものではありません。
https://youtu.be/UYcyucJR-B8?feature=shared(別ウィンドウで開きます)
浜平地下壕の所在する高尾崖では、地権者の要望による治山工事が行われており、工事後も内部に立ち入ることはできません。道路に面しており、危険かつ周辺の方々のご迷惑となりますので、現地観察はお控えくださいますようお願い申し上げます。
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